1分で読むOLのはなし

初級OLが500文字(くらい)で書く云々

お金のはなし

はじめて自分のお金で実家の母を旅行に連れて行った。

 

母はふだんあまり外へ出かけない。

自分が出かけることで家事や祖父の世話を誰かに頼んだりするのを申し訳なく思う人だからだ。

 

旅行は私が言い出して、私が日程を決め、私が箱根のホテルを予約した。

 

母は悪いねえ、と言いながら、でもすごく嬉しそうだった。

 

 

上京してきた母と一緒に観光して、温泉に入って、美味しいものを食べた。

母は毎日インターネットで箱根のレストランや観光地を調べていたらしく、すごく詳しくなっていた。

母の手帳には行ってみたいお店がたくさんメモしてあった。

 

 

本当に楽しそうな母を見て、

ああ、お金を稼ぐということは、自分以外の誰かを幸せにする力を得ることなんだ、と思った。

 

 

 

ずっと、自分でお金を稼げるようになったら好きな服やバッグが買えたり美味しいものを食べたりできるようになるから、そのために働こうと思っていたけど、

こんなに素晴らしいお金の使い方があるんだということに気がついた。

 

世の中はお金が全てではないけど、

私はたくさんお金が欲しい。

自分が必死に稼いだお金は、なるべく好きな人たちを楽しませるために使いたい。

自分の好きな人たちを守れるように使いたい。

そういうお金を稼ぎたい。

 

 

そう思うと、いつも憂鬱な日曜の夜にすこし勇気が湧いてくるのだった。

 

世界の見え方が変わった気がした。

 

 

 

失敗のはなし

仕事の帰りにネイルサロンに行こうと思って、

会社のデスクで予約をした。

 

金曜日だけどものすごく疲れきっていたので飲みに行く元気はもうなく、せめて爪を綺麗にしてから家で休もうと思っていた。

 

 

いざ退勤してサロンに行ったらなんと予約が入っていなかったとのこと。

ぼんやりしてホットペッパービューティーの予約ボタンを押し忘れていたようだ。

 

なんだか腰くだけしてしまって、しかしそのまま帰る気にもならず、ふらふら喫茶店に入って、今である。

 

 

そういえば、今日は失敗が多かった。

朝から寝坊をしてこそこそとオフィスに入ったし、

なんだか服の組み合わせが微妙だったのでトイレに行くたびに鏡を見て後悔した。

 

締め切りを守れなかったタスクがいくつもあった。

 

 

喫茶店のソファでようやく人心地ついたが、なんだかもうしばらく立ち上がれないような気がしている。

 

 

「失敗を恐れるな」

とか

「どんなにすごい人も挫折をしている」

というのはわかるんだけど、

 

そういうときに語られる「失敗」って

なんかかっこいいやつで、色気すらあるような気がする。

 のちにドキュメンタリー番組を盛り上げるネタになるような失敗。

 

でも実際の失敗ってすごく小さかったり無様だったりして、

しかも何のプラスにもならないような気がして、

なのにそれなりに疲弊するから厄介だ。

 

 

 

毎日全力で生きて色んなものを取りこぼして、金曜の深夜に1人で喫茶店に座って我に返る。

 

東京で1人で生きていくのは自由で楽しくて過酷だ。

毎日むちゃくちゃな方向に100m走をしているようで、どこへ向かっているのかはわからないのにとりあえず進まないと死ぬような気がしている。

毎日すごく疲れるのに、それでもまだ東京で消耗したいと思ってしまう。

 

何だか麻薬みたいだな、と思ったところでもう24時を回っていたので、

なんとか重い腰を上げて席を立った。

 

 

 

レジに伝票を出したと思ったら手に持っていたのはドリンクメニューだった。

 

 

 

とりあえず今日は早く寝ようと思った。

 

牛乳寒天のはなし

 

うちの母はよくおやつを手作りしてくれた。

 

昔、兄が生まれて間もない頃

すごく田舎に住んでいてお店もなく、お金もそこまでなかったので

家にあるものでおやつを使る習慣がついたのだそうだ。

 

何度か転勤をしてそのド田舎から適度な田舎に実家は移ったが、

台所にはいつも寒天や、ゼラチンや、ホットケーキミックスや、ゼリーやプリンの素が常備されていた気がする。

それがあまり当たり前ではないことに気づいたのは1人で暮らすようになってからだ。

 

 

べつに手が込んでいたり豪華だったりするわけではないのだけど、

 

寒天と牛乳とみかんの缶詰で作ってくれた牛乳寒天とか、

ホットケーキミックスと干しぶどうで作ってくれた蒸しパンとかが時々無性に食べたくなる。

 

 

誕生日には少し手をかけて、スポンジを焼くところからケーキを作ってくれた。

生クリームを泡立てケーキに塗るのが私と妹の仕事だった。

 

 

母のつくるおやつの味はどこへ行っても買うことができないのだけど、

牛乳寒天だけはどこで買っても同じ味がするように思う。

 

少しぼんやりした、でも優しい味がする。

 

仕事の帰りにコンビニへ寄るとき、

たくさんのスイーツが並んでいるなかで牛乳寒天を手に取る。

 

家で1人で牛乳寒天を食べながら、母のことを思い出す。

 

 

来年で24歳。

母が兄を産んだ歳に少しずつ近づいている。

 

 

おじさんのはなし

 

初めて人の死に遭遇したのは小学5年の冬だった。

同居していたおじさんが死んだ時だ。

 

 

「おじさん」と言っても、叔父ではなく祖父の兄(続柄の呼び方がわからない)で、

家族からはおじさんと呼ばれていた。

 

おじさんは生まれつき軽度の知的障害があり、

結婚せずに家族のもとで暮らしていた。

祖父母と一緒に畑へ行き、農作業の担い手として毎日働いていた。

会話はああ、とかうん、とかは成り立ったが、

複雑な意思の疎通はあまりできなかった。

 私はおじさんとほとんど会話をしたことがなかった。

 

おじさんの世話は主に祖母がしており、

食事も別で風呂は昔からある離れのものを使っていた。

 

側から見れば家族なのにおかしいかもしれないが、

それでも、おじさんは昔からそうで、

私の小さい頃からおじさんはおじさんとしてそこにいて、一緒に暮らしていた。

 

 

 

おじさんはある日あっけなく亡くなった。老衰だった。

 

私は悲しみよりも初めて遭遇する人の死と、

それにともなう通夜や葬儀や親戚の集まりといった非日常のイベントに興奮した。

 

一番の衝撃は火葬の後のお骨拾いだった。

数日前まで一緒に暮らしていた人が、

驚くほど軽い白いものになって帰ってきたのを見て、

「人間はいつか死ぬ」「自分もいつかこうなる」

ということを初めて理解した。

 

誰かが「農作業をして運動していたから骨がしっかり残ってるなあ」

と言った。

おじさんはあまりたくさんは喋らなかったし、

誰かに同情されたり特別に扱われることもなかったが、とても働き者だった。

 

私は慣れない左手でおじさんの骨をひとつ拾って壺に入れた。

 

 

何日か後、台所からおじさんの茶碗が無くなっているのに気づいた。

使う人がいないので祖母が片付けたのだろう。

そのとき私は「あ、おじさんはもういないんだ」

ということを実感した。

人がいなくなるということは、たとえばそういうことなのだ。

 

 

おじさんが無くなって10年以上経つ。

よく考えたら私は障害者の家族だったんだな、と今さら気づいた。

 

24時間テレビやパラリンピックで障害者と

その家族に焦点が当たっているが、

 

当人たちはそこをあまり強く意識していないのかもしれない。

もちろんその家族のことは私には知り得ないが。

 

 

少なくとも私にはおじさんはおじさんだった。

 

 

あの店のはなし

誰かのグラスが空いたら酒を注ぎ、

タバコを吸う人がいたら灰皿を渡す。

 

大人になったら、

そういう動きを呼吸するかのようにできるようになると思っていたが、

なかなかそうはいかないようだ。

 

 

大学に入りたてのとき、

初めてやったバイトは大学近くの小料理屋の店員だった。

もっとも、その店には「ママ」という存在がいて、従業員は女子だけだったので、

スナックと呼んだほうが正しかったのだと今になって思う。

 

私は田舎から出てきたばかりの未成年で酒も飲んだことがなかったが、

「店では20歳ということにする」という条件で採用された。

 

初めてシフトに入ったとき、

「お酒作って」と目の前にJINROの瓶と氷と水を置かれて、

「酒を作る」という行為が分からずポカンとしてしまったことは今も覚えている。

 

酒を作るというのは

常連の顔をみてキープボトルを出し、

割りものの好みを常連ごとに思い出し、

酔い加減に合わせた濃度の水割りやお茶割りを出すという作業を

客との談笑を途切れさせずに行うということだ。

 

私はその一連の行為をうまくできたと思ったことは一度もなかった。

 

 

私の不慣れさを初々しいと取ってくれる常連もいたが、ママは私を使えないと思っていただろう。

 

ああいう店はママが法律であり、ママが秩序を守っている。

ママの王国をつつがなく運営できる、

可愛くて、器用で、頭のいい女の子が求められるのだ。

 

私は結局なじめず半年で辞めてしまったが、

唯一ママの作る料理は好きだった。

 

だし巻き、ナポリタン、串焼き、ロールキャベツ。

特に評判だったモツ煮。

 

ママは仕事のできない者には厳しかったが、

まかないだけは「たくさん食べなさい」と言って出してくれた。

「スナック業」の才能の無さに落ち込みながら食べるモツ煮は胸に沁みた。

今でも時々ふと、あの味を思い出す。

 

 

あの店はきっと今日も、ママと私の知らない女の子たちによって運営されている。

 

 

いまだに酒の席での振る舞いは苦手だが、

いつかもう一度あの店に行きたい、と思う。

夏休みの宿題のはなし

昔のユーミンの歌に「台風が行く頃は涼しくなる」という一節があったけど、

本当に台風のあとは空の色が一段薄くなって、ああ夏が終わるんだなと思う。

 

小学生の頃の私は比較的優秀だったので、夏休みの宿題を溜め込むことはなかった。

 

夏休み帳などの「手を動かせば終わる」タスクは数日で済ませ、

自由研究や絵などの重めのタスクはそこそこ大人受けするけど手間のかからなそうなテーマを選んで父や兄の協力を得ながらそれなりのクオリティに仕上げる。

休み明けには宿題をきちんと提出して先生に褒められる、いわゆる要領のいい子供だった。いつでもどの領域でも偏差値60くらいはとれるタイプだ。

 

新学期の教室で、死ぬほど手間のかかる自由研究テーマを選んだ末に最後まで終わらなかった同級生や、遊びに精を出しすぎて半分も宿題が終わらなかった同級生を見て、

どうしてもっとうまくやれないのだろう、と思っていた。

 

 

今年から夏休みというものはなくなったが、

人間というのは成長しても根っこの部分は変わらないらしく、私の仕事のやり方は

夏休みの宿題のすすめ方に似ている気がする。

 

でも、どうしてだろうか

彼らがいま何をしているのかが少し気になる。

終わろうが終わるまいが好きなテーマで黙々と自由研究をしていた彼女や、

宿題が出せなくて先生に怒られてもどこか満足げだった彼が。

彼らはいまどこでどんな人生を送っているのだろう。

 

宿題が終わっていないのは私なのかもしれない。

 

 

なんてことを考えていたら月初から遅刻しそうになった。